宮津空襲の慰霊祭2022

今から77年前の1945(昭和20)年7月30日、早朝5時頃から夕方まで続く宮津空襲…
全国の主要港が機雷封鎖され、宮津湾に停泊していた駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」「初霜(はつしも)」と関釜連絡船※「昌慶丸(しょうけいまる)」は米軍艦載機の波状攻撃を受け、初霜と昌慶丸が撃沈されました。
※関釜(かんぷ)連絡船:1905年~1945年に下関と釜山を運航していた鉄道連絡船。
(米軍は宮津空襲前夜に宮津湾へもパラシュートで機雷を敷設)
同時に伊根湾で樹木による偽装停泊していた潜水母艦「長鯨(ちょうげい)」も撃沈されました。
「宮津空襲」は当初から焼夷弾による民間人を狙った爆撃ではなく、「宮津湾と伊根湾の海戦」と捉えられる方がいらっしゃるように米軍と帝国海軍との戦闘だったようです。
桜山の防空壕近辺、宮津駅前と構内、グンゼ宮津工場正門近く、栗田湾の海軍航空隊などに爆弾が落ち、栗田を通過中の汽車、上宮津地区、鶴賀地区等への機銃掃射や、前日まで陸に落ちた機雷等で、一般市民の戦死者15名、負傷者一説に約60名の被害がでました。
撃沈された駆逐艦「初霜」の戦死者は、「艦長たちの軍艦史」によると、132名にのぼったと記されています。
宮津空襲体験者の皆さんと「宮津の歴史で最も悲惨な日」を後世に伝えることを目的に、市民の被害が最も大きかった「桜山」の防空壕跡で2016年から慰霊祭を始めました。
高齢化が進み、次の世代に伝える術を真剣に考え、具現化することが戦争を知らない世代の責務だと私は思います。
戦争体験者から直接お話を伺える時間が残り少なことを今日改めて確認し合いました。
4発の至近弾で桜山防空壕北西部入口が落盤して亡くなった3名の一人、比賀病院の娘さんのお墓
2019年、智源寺の「無縁仏」に移された旨を倉橋義和さんに伺いました。
2017年3月から始まった桜山の土砂崩れ対策工事で、防空壕入口跡も見られなくなりました。(2017年4月9日撮影)
宮津で初めてクラウドファンディングで資金調達しましました。
2017年3月から始まった桜山の土砂崩れ対策工事で、防空壕入口跡も見られなくなりました。
(2017年7月21日撮影)
桜山会館
元々、桜山遊園跡にあった武道場の「武徳殿」です。
宮津空襲時の船の概略図
米軍艦載機の20mm機銃の薬莢
米軍艦載機の爆弾の破片
ずっしり重く、飛散する破片の被害者が多数でたそうです。
駆逐艦「雪風」の対空砲火で文殊に撃墜した米軍艦載機コルセアのプレート
ガリソン少尉が死亡。
艦載機には釣り道具も積まれていて、海に不時着した時にも生き延びる術をもっていたようです。
東京都墨田区にある「山田記念病院」に、昭和20(1945)年7月30日の宮津空襲で撃沈された駆逐艦「初霜」の錨が保存されています。
軍医として「初霜」に乗艦されていた初代院長の故 山田正明氏は、戦後に解撤された船体の内、「錨」が偶然にも横浜の古道具屋にあることを知り、購入して病院前に据えられました。
今も戦争の記憶を伝えると共に、患者に錨を下して暫しの休息を…
との願いを込めて、「山田記念病院」のシンボルとして「錨」が展示されています。
【宮津高校 郷土研究クラブ「宮津空襲の記録」1977(昭和52)年刊行】
【防人の詩】