東西見聞録

【新潟県長岡市「戦争と平和、街の復興を考える」】~2014年10月~

幕末の藩政改革に成功し、戊辰戦争に臨み中立の立場を貫こうとするも、町を戦場としてしまった河井継之助。
官軍との戦いに反対し、明治維新後の「米百俵」で教育によって町を再興した小林虎三郎。
予てより軍部独裁、対米戦争に反対したにも拘らず、連合艦隊司令長官として太平洋戦争開戦を指揮した山本五十六。
終戦間際の大空襲に遭った新潟県長岡市…
現代の私達は、此処から学ぶことが沢山あると思いました。
人口は276千人、東京から上越新幹線で約1時間半の所にあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/長岡市

1.シティーホール プラザ アオーレ長岡
地元の物産展で賑わっていました。
この施設は、長岡市役所本庁舎と、アリーナ、市民交流ホールなどを擁する交流施設、屋根付き広場「ナカドマ」の3つ構成され、2012年に市役所機能の中心市街地集約化と、老朽化した旧厚生会館の後継施設整備の2つを柱に、市民交流の拠点施設として整備を進めたものです。
ナカドマに掛かる大屋根は、写真の通り鉄骨トラス造で約9千m2あり、冬は融雪装置による自然光による採光を可能としています。
又、3棟を免震支承と制震ダンパーを介して繋ぐことで、建物全体の耐震性を高める工夫がなされています。
また、屋根には太陽光発電パネル(出力10kW)が設置されている他、雨水・融雪水を循環して使用できる雨水中水化システムを備え、環境負荷の低減を図っています。
本庁舎の市民窓口は、東棟1階に集約され、申請や手続きの目的・内容毎に窓口を11種類に分類し、各種手続きをワンストップで行える配慮がなされています。
また平日の窓口業務を午後8時まで延長し、加えて年末年始を除く土曜・休日も業務を行うなど利便性を高めています。
市議会議場は、市民に近い目線での、ガラス張りの市政を象徴する他、傍聴席では県内で初めて親子席を設置しています。
宮津市役所にとって、とても参考になります。
老朽化した市庁舎の建替えorミップルへの移転etc.…
想像が膨らみます(^ω^)
http://ja.wikipedia.org/wiki/長岡市シティホールプラザアオーレ長岡

2.河井継之助記念館
旧宅に建てられました。
幕末の藩政改革に成功し、戊辰戦争に臨み中立の立場を貫こうとするも、町を戦場としてしまった経緯や当時の最新兵器「ガトリング砲」が見学できます。
尚、幕末、城崎で長逗留した後、府中と宮津城下にも立ち寄られたようです。
館内は写真撮影不可の為、展示品は、以下のHPをご覧ください。
http://tsuginosuke.net/modules/xpwiki/?河井継之助記念館

3.米百俵之碑・長岡市立阪之上小学校・米百俵の群像
米百俵(こめひゃっぴょう)とは、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士・小林虎三郎による教育にまつわる故事です。
後に山本有三による戯曲で有名になったこの逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語としてしばしば引用されます。
河井継之助が率いた北越戦争(戊辰戦争の一つ)に敗れた長岡藩は、明治政府から74千石から24千石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏しました。
藩士達は、その日の食にも苦慮する窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなりました。
藩士達は、これで生活が少しでも楽になると喜びましたが、藩の大参事・小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却して学校設立の費用とすることを決定しました。
藩士達は、この通達に驚き反発して虎三郎の元へと押しかけ抗議しますが、虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきりました。
この米百俵の売却金によって開校したのが、日本初の「国漢学校」で、洋学局と医学局が設置されました。
この学校は士族によって建てられた学校ですが、一定の学力に達した庶民の入学も許可されました。
国漢学校は、現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校の前身となりました。
尚、長岡藩江戸上屋敷にも国漢学校があり、長崎に医術の修行のため内地留学も出していました。
この物語は、「米百俵の精神」という言葉になり、2001年に小泉純一郎 内閣総理大臣が内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用されて有名になり、当時の流行語にもなりました。(wikipediaより引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/米百俵

4.野本互尊翁(恭八郎)の胸像と長岡互尊文庫
嘉永5年10月24日生まれで、第六十九国立銀行取締役,新潟県会議員などを務めました。
互尊即独尊を説き,大正4年長岡に互尊文庫を創設、昭和9年には日本互尊社を設立し,全財産を寄付しました。
互尊社(互尊文庫)の由来は、日頃から熱心に主張していた「我人独尊皆互尊(ワレヒトドクソンミナゴソン)」の深い考えを広めようとしてつけられました。
「自分の尊さを自覚するとともに、他人を尊び敬うことが大切である」という意味だそうです。
http://www.kome100.ne.jp/main/contents/cec/naga_data/nagaoka/rekisi/ishin/index36.htm

5.山本五十六記念館・山本記念公園・山本(高野)五十六の生家(復元)
連合艦隊司令長官・山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式陸上攻撃機が撃墜された左翼部分や搭乗席、対米戦反対等の書簡や写真が多数見学できます。
館内は写真撮影不可の為、展示品は、以下のHPをご覧ください。

展示品のご紹介


有名な名言
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「苦しいこともあるだろう 言いたいこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣きたいこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。」
http://yamamoto-isoroku.com/
尚、「常在戦場」は、長岡藩に伝わる「いつも戦場にいる気持ちで事に当たれ」という武士の心得の言葉です。

6.如是蔵博物館
互尊文庫を創設し、明治から大正時代に学校・社会教育などの公共事業に力を注いだ実業家の野本恭八郎をはじめ、山本五十六・三島億二郎・河井継之助・小林虎三郎・小原直等、長岡出身の偉人の遺品や資料などを展示しています。
殊に明治38(1905)年5月27日の日本海海戦に於いて、軍艦 日進に乗組んだ少尉候補生時代の山本五十六が左手と右足に敵弾の破片を受けて重傷を負った時に着用していた軍服(ズボンの右下が破けている)や昭和18(1943年)4月18日にソロモン諸島ブーゲンビル島上空で戦死する前日まで、着用していた純白の第二種軍装等が展示されています。
「如是蔵」とは「知恵の蔵」という意味です。

7.長岡戦災資料館
昭和20年(1945年)7月20日、市内左近に1発の模擬原子爆弾が投下されたのが、初めての空襲でした。
8月1日の22時30分から始まったB29による空襲は、1時間40分に及び、市街地の8割が焼け野原となり、1,485人の生命を奪いました。
投下された焼夷弾は、925トン、約163千発に登ったそうです。
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/siryoukan.html

8.模擬原子爆弾投下地点跡地
第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発、使用した爆弾で、長崎に投下された原子爆弾の模擬爆弾として、18都道府県30都市に50発が投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が出たと言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/パンプキン爆弾ー

9.慈眼寺
慶応4年(1868年)5月2日 (旧暦)、長岡藩家老・河井継之助と新政府軍監・岩村精一郎(後の高俊、土佐藩)が会談し、河井が中立和平を訴えましたたが、聞く耳を持たない岩村と決裂し、戊辰戦争の内でも激戦となる北越戦争が始まりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/慈眼寺

10.三波春夫顕彰碑
戦後の日本を代表する演歌歌手・三波春夫の本名は北詰文司(きたづめ ぶんじ)で、新潟県三島郡越路町(現 長岡市)出身で、「チャンチキおけさ」「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」等、ここではボタン一つで鳴り響きます。
いつも絶やさぬ朗らかな笑顔と浪曲で鍛えた美声で知られ、歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手です。
自らの芸と観客に対する真摯な姿勢は「お客様は神様です」のフレーズを生みました。
戦後、シベリア抑留を経て舞鶴港から日本に帰還された苦労人です。
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/shiseki/minami.htmlー

【池田高校野球部の蔦文也監督を偲んで】~2016年11月~
私が高校生の頃は、箕島高校の尾藤監督、沖縄水産の裁監督等、地方の公立高校に多くの名将がいて、甲子園でスターになる選手が沢山いました。
池田高校が史上初の甲子園3連覇を賭けた夏の大会で、同学年の水野投手が1年生の桑田・清原選手を擁するPL学園に大差で敗れたあたりから時代が変わったのかもしれません。
因みに、サラリーマン時代にPL学園と初めて取引した折、システム部長から、当時のコンピュータを活用した「人文字」の制作方法と池田高校の水野投手の配球パターンや各打者の分析に関する貴重なお話を伺い、改めて「時代」を痛感しました。
そのPL学園も2016年で野球部が休部になりました。
「高校野球」について、蔦監督にゆっくり尋ねてみたいと思うのは私だけでしょうか…
【蔦監督の名言】
1971年夏、甲子園初出場時
「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」
1974年春、さわやかイレブンで準優勝時
「さわやかでも何でもない。ワシのしごきがきついけん、ついていけんようになっただけじゃ」
1982年夏、初の全国制覇時
「甲子園はいっぺん味をしめると忘れられへん。ワシは池田に骨を埋めるつもりじゃ。私学は制約が多いし、他県にもよう出ていかんし」
1982年秋
「ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切り、のびのび打ったらええんじゃ」
池田高校のグランドは狭く、今でもサッカー部と陸上部と兼用です。
ライト側のフェンスが異様に高いのは、当時「やまびこ打線」と恐れられた水野選手たちの打球が民家の屋根を直撃したからだそうです。
5年前に訪問した時は、ちょうど野球部の練習中で、金属バットの快音が心地よく山間に響いていました。
写真は、池田高校の故 蔦文也監督の家です。
現在、60歳の娘さんがお住まいになられていました。
右端の青いポスターは、お孫さんが「蔦監督」の映画を作られた時のものです。
2軒隣りには「阿波池田たばこ資料館」があり、蔦家も長年たばこで潤ったそうです。

【NHK朝の連続テレビ小説「わろてんか」の舞台】~2017年12月~

2017年10月から放映されている「わろてんか」の舞台で「吉本興業の発祥の地」が南森町の大阪天満宮の北側にあります。
よく「天満天神繁盛亭」だと誤解されていますが、繁盛亭の正面にある駐車場が「吉本興業の発祥の地」です。
https://www.nhk.or.jp/warotenka/