宮津空襲の慰霊祭2021

昭和20(1945)年7月30日、一般市民の戦死者15名・負傷者約60名、撃沈された駆逐艦「初霜」の艦長が記した軍艦史によると戦死者132名と伝わる「宮津空襲」から76年が経ちました。
「このままじゃいかん!宮津の歴史で最も悲惨な日を後世に伝えんと!!」 と仰られる5名の宮津空襲経験者の皆さんと共に、最も市民の被害が大きかった「桜山」の防空壕跡で2016年から慰霊祭を始めました。
80歳を越える皆さんから「わしらは、近々いなくなるから、宮津空襲を必ず未来に伝えてほしい」と言われ、「まさか!おっちゃんらは未だ未だ元気やで !!」と笑っていましたが…
年々、皆さんの体力が減退し、また奥さんの看病などで外出がままならなくなってきました。
そして、先日、発起人の一人 岩見清次さんが亡くなりました。
高齢化が進み、次の世代に伝える術を真剣に考え、具現化することが戦争を知らない世代の責務だと私は思います。
戦争体験者から直接お話を伺える時間が残り少なことを今日改めて確認し合いました。
機雷に接触し、宮津湾の獅子崎で沈没した駆逐艦「初霜」。
【初霜のWikipedeia】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9C%9C_(%E5%88%9D%E6%98%A5%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
宮津湾で沈没した関釜連絡船※「慶尚丸」
※下関と釜山の約240 kmを航行した船。
【関釜連絡船のWikipedeia】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E9%87%9C%E9%80%A3%E7%B5%A1%E8%88%B9
宮津空襲でも生き残った駆逐艦「雪風」
1945年4月、戦艦大和の沖縄特攻作戦にも加わり奇跡的に生還した艦です。
【雪風のWikipedeia】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A2%A8_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
桜山にある天満宮
右手の緑の車庫がある場所に米軍艦載機の爆弾が落ちたと大村昭司さんから伺いました。
4発の至近弾で落盤した桜山防空壕北西部入口跡は左手奥にあります。
3名が亡くなっています。
桜山会館
元々、山上の桜山遊園跡にあった武道場の「武徳殿」です。
4発の至近弾による落盤で3名が亡くなった桜山防空壕北西部入口跡
手前の石橋と灯籠は、廃城となった後に宮津城二の丸庭園から移設したものです。
桜山遊園跡の登り坂
4発の至近弾による落盤で3名が亡くなった桜山防空壕北西部入口跡は、写真の右端にあります。
奥谷安弘さんや今年亡くなられた岩見清次さんは、お地蔵さんの約10m奥にあった桜山防空壕北東部入口にいたので、難を逃れたそうです。
桜山防空壕北東部入口があった坂の東側
桜山防空壕北東部入口跡(2017年4月、土砂崩れ対策工事前に撮影)
桜山の約30m北東にある稲荷神社
左手の軽自動車の右手に米軍艦載機の爆弾が落ちて1名死亡し、当時は木製の鳥居が右手前の民家の屋根に飛ばされたと大村昭司さんから伺いました。
至近弾で桜山の約30m北東にある稲荷神社の鳥居は正面の家(建て替え前)の屋根上に吹き飛んだそうです。
桜山遊園跡から宮津の市街地を望む
万町自治会第4番組 昭和16(1945)年の記録
万町自治会第4番組 昭和16(1945)年の記録に残る7月30日の空襲被害
4発の至近弾で桜山防空壕北西部入口が落盤して亡くなった3名の一人、比賀病院の娘さんのお墓
智源寺の「無縁仏」に移された旨を一昨年前、倉橋義和さんに伺いました。
米軍艦載機の20mm機銃の薬莢
米軍艦載機の爆弾の破片
ずっしり重く、飛散する破片の被害者が多数でたそうです。
駆逐艦「雪風」の対空砲火で文殊に撃墜した米軍艦載機コルセアのプレート
ガリソン少尉が死亡。
艦載機には釣り道具も積まれていて、海に不時着した時にも生き延びる術をもっていたようです。
駆逐艦「雪風」の対空砲火で文殊に撃墜した米軍艦載機コルセアのプレートのアップ
空襲前、米軍艦載機から旧宮津町周辺にばらまかれた「降伏勧告文書」
今日も奥谷安弘さんに持って来て頂きました。
戦争中に使用された宮津市内の配給券
今日も奥谷安弘さんに持って来て頂きました。
戦争中に旧宮津町民が有志で寄付した「艦上戦闘機 宮津號」
今日も奥谷安弘さんに持って来て頂きました。
東京都墨田区にある「山田記念病院」に、昭和20(1945)年7月30日の宮津空襲で撃沈された駆逐艦「初霜」の錨が保存されています。
軍医として「初霜」に乗艦されていた初代院長の故 山田正明氏は、戦後に解撤された船体の内、「錨」が偶然にも横浜の古道具屋にあることを知り、購入して病院前に据えられました。
今も戦争の記憶を伝えると共に、患者に錨を下して暫しの休息を…
との願いを込めて、「山田記念病院」のシンボルとして「錨」が展示されています。
【山田記念病院のHP】
http://www.yamada-kinenhp.jp
山田記念病院にある駆逐艦「初霜」の錨に関する説明。

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。
初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。
初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。
縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。
昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐
山田正明

【毎日新聞2021年7月31日の記事】
https://mainichi.jp/articles/20210731/ddl/k26/040/341000c
※京都新聞・産経新聞・読売新聞にも掲載されました。

【当日収録した宮津空襲の体験談】
椅子の上に置いたカメラの三脚が倒れ、3回に分割して録画しています。