宮津七万石の町衆文化 ~万町(よろずまち)のお宝~

戦国時代、細川藤孝・忠興父子が丹後を侵攻して作られた宮津の城下町…
江戸時代は丹後の中心として北前船の寄港地としても繁栄しました。
「桜山天満神社のお宝」を管理する万町自治会の皆さんが文化の日と虫干しを兼ね11月1~3日に桜山会館でお宝を展示されました。
2015年4月、京都府教育庁指導部文化財保護課の中野慎之 技師(絵画・彫刻・工芸品担当)にお越し頂き、鑑定を受けてから今回新たな「お宝」が見つかりました。
現在、中野技師が国へ出向中の為、コロナ禍が治まってから某テレビ局にお願いして鑑定を受けようと思っています。
「観光」の語源は、古代中国の「易経」に記された「観国之光 利用賓于王」(国の光を観るは、もって王の賓たるに利し)とあり、その本来の語義は、「他国の制度や文物を視察する」ことだそうです。
また、「観」には「示す」という意味もあり、「外国の要人に国の光を誇らかに示す」意味も含まれているようです。
大枚を叩いて造った「みやづ歴史の館の資料館」が休館となって13年…
「国際観光都市」を標榜する宮津市にとって、憂うべきことだと思います。
宮津の眠れる資源の一つ「書物・絵画・骨董品」などの鑑定を始めることで、地元の歴史を後世に伝えることは勿論、歴史的評価を受ける「お宝」が見つかれば、新たな観光に繋がると思います。
右手の黒い絵「不動明王像」は2015年4月20日の鑑定結果…
萬町文化財台帳では「画筆:巨勢金岡(こせのかなおか)」と記載ありましたが、巨勢金岡※の画筆ではありませんでした。
しかし、鎌倉末期から室町初期に描かれた逸品であることが判明しました。
緻密な筆のタッチと金糸を使用した独創的な絵画だそうです。
※巨勢金岡自筆の現存する絵画は皆無で、大半が弟子による画筆が存在しているとの由。
http://ja.wikipedia.org/…/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%87%91
中央の「弘法大師像」は2015年4月20日の鑑定結果…
萬町文化財台帳では「画筆:無銘」と記載ありましたが、顔面の丁寧な描写で、全国数多ある「弘法大師像」の中でも良好な作品だそうです。
江戸時代に作成されたことが有力ですが、室町時代の可能性もあり、今後更に検証の必要があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
右手の「渡唐天満宮御神影」は2015年4月20日の鑑定結果…
萬町文化財台帳では「画筆:宮津城主 阿部朝臣正盛[延宝9年(1681年)に武州岩槻より国替]」と記載あった通り江戸時代前期の大名で、武蔵国岩槻藩、丹後国宮津藩、下野国宇都宮藩、備後国福山藩の藩主を務めた阿部家5代目の阿部正邦の直筆です。
http://ja.wikipedia.org/…/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3…
幕末の日米和親条約を締結した老中・阿部正弘は、阿部家11代目当主です。
http://ja.wikipedia.org/…/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3
桜山天満神社の御神像の可能性が高い「菅公木造」
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで、京極家は宮津藩主となりました。
元和8(1622)年に京極高知が家督を引き継ぎ、叔母で豊臣秀吉の側室であった松の方が秀吉の形見として譲り受けた「菅公木造」を宮津市万町の桜山天満宮の御神体にしたと伝わります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/京極竜子
「菅公木造」に関する記載がある桜山天満神社の寄付名簿