時は今…時こそ知りて…明智光秀と細川ガラシャの父子物語


今日は、明智家の家紋「桔梗(ききょう)」をモチーフに細川ガラシャの足跡を長年辿ってきた「丹後桔梗の会」の皆さんが主催される「光秀玉子の絆展」に伺いました。
ガラシャ直筆の手紙(複製)や人形セットなどが展示され、盛り沢山の内容と同級生のお母さん達でつくる丹後桔梗の会の皆さんとの歴史談義に時間を経つのも忘れました。
「光秀玉子の絆展」は、5月12日(日)までミップル3Fで開催されています。
5月11日(土)13:30~15:00には、ミップル3Fで京都暁星高校で教鞭を執られる玉手幸子 先生の講演「光秀と玉子の父子ものがたり」が開催されます。
Seeing is believing.(百聞は一見に如かず)と言いますが…
是非、中世から近世に移る約400年前の激動期を生きた気丈な貴婦人と宮津に思いを馳せてください。

来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀で、京都府北部の各市町も徐々に企画が増えてきました。
宮津市は光秀の三女 たま(こ)「細川ガラシャ」が天正8年8月2日(1580年9月20日)から新婚時代の3年半を宮津で過ごしました。
地元の一色家と対峙し、12万石の大名として宮津八幡山城に入国した細川家は、海岸に宮津城を築城しながら地盤固めを図る喧騒期です。
この間、天正10年6月2日(1582年7月1日)の本能寺の変で光秀が謀反人となったことから、ガラシャは味土野(京丹後市弥栄町)に1年半幽閉されました。
その後も関ヶ原合戦前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に西軍の人質になることを拒み、大坂で亡くなるまで大坂屋敷と宮津を往来しています。
細川ガラシャの人生は、「気丈な貴婦人」として1698年に欧州でオペラとして発表され、現在も上演されています。
殊にオーストリア・ハプスブルク家のお姫さま達が政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受け、マリー・アントワネットやエリーザベトなどの生き方にも影響を与えたと伝わります。

丹後桔梗の会の皆さんは、毎年10月10日前後の3日間、寺町を中心とした市街地をろうそくの灯りで彩る「和火(やわらび)」で、毎年ガラシャの紙芝居や史実の発表されます。
この写真は「丹後桔梗の会」の会場となった旧家です。

2018年のクリスマスイブにはライトアップされる細川ガラシャ像に丹後桔梗の会の皆さんがキャンドルサービスをされました。
背景の「宮津カトリック教会 聖ヨハネ天主堂」は1896(明治29)年に建築され、日本で現存する教会では2番目に古く、現役で使用されている教会としては日本で最も古いカトリック天主堂です。

天橋立の文殊地区にある知恩寺に伝わる「キリシタン灯籠」
昨年末、丹後桔梗の会の皆さんと一緒に訪問しました。
本能寺の変が起こる直前に明智と細川の父子が知恩寺から天橋立に舟を浮かべて茶会を開いています。
「キリシタン灯籠」は、初めて見学しました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA