由良出身の江戸末期の名医 新宮凉庭


宮津ロータリークラブで、掲題に関してスピーチしました。
江戸時代後期、長崎の出島に於いてオランダ医学を学んだ蘭学医として大坂で適塾を興した緒方洪庵と肩を並べ、京で順正書院を興した新宮凉庭(しんぐうりょうてい)…
明治時代に京都府立医科大学を設立する優秀な医学者を育む傍ら、理財家として盛岡藩(岩手県)と越前藩(福井県)の財政を立て直しました。

殊に司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の中でも度々登場しますが、幕末四賢侯の一人と称される越前藩主 松平春嶽は、熊本から横井小楠を招聘して「能力主義の人材登用」「洋の東西を問わない学問の奨励」「貿易を中心とした経済政策」による斬新な藩政改革を断行し、坂本龍馬が神戸海軍操練所建設の資金援助を求めました。
そして、坂本龍馬は、暗殺される4ヵ月前に起草した新国家体制の基本方針「船中八策」に影響を与えた越前藩士の三岡八郎(明治維新後、由利公正に改名、五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」を著した)と親交しましたが、同藩の財政が好転していなかったら歴史が変わっていたかもしれません…
意外と宮津でも知られていない歴史上の人物に光を当ててみました。

【スピーチの概要】
新宮凉庭は、1787(天明7)年に由良で生まれ、今年は生誕230年になります。
幼い頃から記憶力に優れた秀才で、地元の「松源寺」で学んだ頃のエピソードとして、深夜に光が漏れて叱られないように線香を灯して勉学し、雨の日も傘をさしながら、読書を怠らなかったと伝わります。
また、本を読んでいて、鼻水が出たので本の頁を破いて鼻をかんだ処を先生に注意されましたが、「覚えてしまえば、反故(ほご)と同じである」と反論し、先生が確かめたところ、一行一句間違わすに諳んじたそうです。
因みに「松源寺」にある忠魂碑は、日露戦争の日本海海戦で指揮をとった東郷平八郎の揮毫で、傍に、昔、疫病が流行った折、住職が病の妖怪を封じたと伝わる石があります。
新宮凉庭は16歳で福知山藩の江戸藩邸に詰め、18歳の時に由良で漢方医として開業し、昼夜を問わず、寝食を顧みずに治療に当たったと言われます。
21歳で西洋医学を学ぶことを決心し、長崎出島の商館医として働き、31歳で由良に戻った翌年、京都で開業し、名医の誉れ高く、多くの弟子も育て、門弟は、後に「寮病院」から京都府立医科大学へ発展する「京都医学研究会」を設立し、近代医学に貢献しました。

また、新宮凉庭は経済的にも成功し、52歳で医学学校と文化サロンを兼ねた「順正書院」を南禅寺の隣に建て、大名諸侯や文人墨客らが集い、理財家として盛岡藩と越前藩の財政を立て直し、故郷の田辺藩には融資を行い、経済書も著し、日米和親条約が結ばれた1854(嘉永7)年に68歳で亡くなるまで、当時の日本の医療・政治・経済に於いて多大な影響を与えました。
尚、「順正書院」は瓦屋根に桧皮を配した造りで、後に国の有形文化財に登録され、現在、南禅寺ゆどうふ順正として賑わっています。

また、新宮凉庭の由良にある実家は、膨大な書物と共に現在もご子孫の方がしっかり守られています。
舞鶴メディカルセンターには新宮凉庭の銅像と説明書きがあり、舞鶴市民の皆さんには新宮凉庭という偉人の功績が周知されています。
宮津市民の皆さんへの周知と、新宮凉庭が幼少期に学んだ松源寺での逸話等を観光に活用することを、私は考えています。

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