1945(昭和20)年4月7日14時23分…
当初、旧帝国海軍の旗艦も務め、当時の世界最新鋭戦艦 大和は、12時32分から米国軍機動部隊約400機の攻撃を受け、鹿児島県坊津沖約200Km、北緯30度22分東経128度4分で撃沈され、約3千名が亡くなりました。
「時代遅れの大艦巨砲主義」「俄仕立ての作戦」「情報収集の軽視」等、大和轟沈に拘る海軍首脳部の反省点は尽きませんが、根本である国の誤った「戦術と戦略」で辿った悲惨な歴史を改めて考えざるを得ません。
副電測士として大和に乗艦した吉田満海軍少尉は、帰還後に著した「戦艦大和ノ最期」に於いて、出撃前夜に沖縄特攻作戦を知らされ、「死に方」について乗組員の青少年が喧嘩になった折、上官の臼淵磐 哨戒長(21歳で戦死)が、仲裁した言葉を残しています。
「進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじすぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外に、どうして日本は救われるか。
今、目覚めずしていつ救われるか。
俺たちは、その先導になるのだ。
日本の新生に先駆けて散る。
まさに本望じゃないか。」
私は、臼淵磐 哨戒長他約3千名の死を無駄にしたくないと思います。
【戦艦大和のWikipedia】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)