日中戦争中の1937(昭和12)年、政府は大江山のニッケル鉱石を軍事用に供するため海上輸送しようと考え、天橋立の切断を地元に強く求めました。
当時の三井長右衛門 宮津町長は、政府の要求を拒否し、天橋立が切断の危難を免れたと伝わります。
三井長右衛門は、宮津町長を務めた1935(昭和10)年10月から6年間に下水道埋設、地下防火槽の設置、大江山普甲峠や丹後半島周回道路の開削など町の礎となるインフラ整備を進めました。
しかし、戦局の悪化と結核による体調不良や太平洋戦争の勃発など、三井長右衛門と家族へ陰湿な嫌がらせが続き、今から80年前の1944(昭和19)年7月7日に三井長右衛門は失意のうちに亡くなりました。
劇「噂」のビデオは、1917(平成29)年4月29日に名古屋市文化振興事業団(東文化小劇場)で行われた公演を収録したもので、戦時中の三井家が被った「噂」等による嫌がらせと戦後の民主主義とともに歩んでいく家族の足跡も辿ります。
当時、観劇した宮中37会[宮津中学校を1962(昭和37)年度卒業生の団体]の皆さんが、今般、宮津市と天橋立を守る会の後援を得て、本上映会を開催されました。
「天橋立の悠久を念じて悠久の碑」がある丹後郷土資料館の駐車場東側の私有地
草に埋もれていました。
「天橋立の悠久を念じて悠久の碑」
1937(昭和12)年、わが国は中国と戦っていました。
政府は大江山のニッケル鉱石を軍事用に供するため海上輸送しようと考え、天橋立の切断を地元に強く求めました。
地元民は心の古里として大切にしている天橋立が切断されることに賛成ではありません。
しかし、戦争であるからしかたがないと考える人も多くありました。
加えて政府や軍部の考えに反対することは、生命に危険が及ぶことも覚悟しなければならないほどの異常な時代だったのです。
地元民の期待と不安のうちにたったひとりで交渉の席に着いたのはときの宮津町長 三井長右衛門でした。
彼は戦争の遂行と天橋立の歴史と自然を守ることの相反する難題を前に思い悩みましたが、最後に切断すれば再び元の姿にもどることはできないと、天橋立を愛する心のほとばしるまま、生命も捨てるほどの決心で政府の要求を断固として拒否しました。
この勇気ある行動により天橋立は切断の危難を免れたのです。
この場に立って、静かに先人の労苦をしのぶとき、眼の前に展開する世界にも稀な美しい景観を、次の世代に伝え継ぐ責任の重さがひしひしと迫ってきます。
この碑が自然を守ることの大切さを広く末永く訴え続けてくれることを祈念してやみません。
天橋立を愛する者相集まってここに碑を建てる
賛同者世話人 北絛喜八撰
1997(平成9)年11月吉日
設計施工、碑石寄贈 寿園、山寺 清