宮津空襲の慰霊祭2023

今から78年前の1945(昭和20)年7月30日、早朝5時頃から夕方まで続く宮津空襲…
全国の主要港が機雷封鎖され、宮津湾に停泊していた駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」「初霜(はつしも)」と関釜連絡船※「昌慶丸(しょうけいまる)」は米軍艦載機の波状攻撃を受け、初霜と昌慶丸が撃沈されました。
(米軍は前夜に宮津湾へパラシュートで機雷を敷設)
同時に伊根湾で樹木による偽装停泊していた潜水母艦「長鯨(ちょうげい)」も撃沈されました。
「宮津空襲」は当初から焼夷弾による民間人を狙った爆撃ではなく、「宮津湾と伊根湾の海戦」と捉えられる方もいらっしゃいます。
桜山の防空壕近辺、宮津駅前と構内、グンゼ宮津工場正門近く、栗田湾の海軍航空隊などに爆弾が落ち、栗田を通過中の汽車、上宮津地区、鶴賀地区等への機銃掃射や、前日まで陸に落ちた機雷等で、一般市民の戦死者15名、負傷者一説に約60名の被害がでました。
撃沈された駆逐艦「初霜」の戦死者は、「艦長たちの軍艦史」によると、132名にのぼったと記されています。
宮津空襲体験者の皆さんと「宮津の歴史で最も悲惨な日」を後世に伝えることを目的に、市民の被害が最も大きかった「桜山」の防空壕跡にある桜山会館で今年も8回目の慰霊祭を行いました。
※関釜(かんぷ)連絡船:1905年~1945年に下関と釜山を運航していた鉄道連絡船。
宮津空襲でも生き残った駆逐艦「雪風」
1945年4月、戦艦大和の沖縄特攻作戦にも加わり奇跡的に生還した艦です。
雪風 (駆逐艦) – Wikipedia
「呉海軍墓地誌 海ゆかば」
第17駆逐隊「雪風」の頁
機雷に接触し、宮津湾の獅子崎で沈没した駆逐艦「初霜」。
「呉海軍墓地誌 海ゆかば」
第17駆逐隊「初霜」の頁
伊根湾で撃沈された潜水母艦「長鯨」(ちょうげい)
宮津湾で撃沈された関釜連絡船「昌慶丸(しょうけいまる)」
※関釜(かんぷ)連絡船:1905年~1945年に下関と釜山を運航していた鉄道連絡船。
昌慶丸 – Wikipedia

「萬町町内会の昭和16年の記録」に宮津空襲の慰労金を支払った記録が残っています。
旧制宮津中学校(現 宮津天橋高校)で終戦後に戦闘機の部品を埋めた図
1930(昭和5)年生まれで父の同級生だった故 黒田計二さんが生前に頂きました。
当時の生徒はグンゼ宮津工場の東にあった惣の秘密工場で戦闘機を組み立てる作業に動員されていましたが、終戦前に部品を校庭に埋めたそうです。
生前に何とか掘り起こしてくれと言われましたが、私が高校1年の春休み(1982年)に始まった校舎改築で建物ができていたので、不可能でした。