新宮凉庭と順正書院 ~60年振りの再会と発見~

江戸時代後期の蘭学医で宮津市由良出身の新宮凉庭(しんぐうりょうてい)のご子孫 新宮凉輔さんと、京都市の南禅寺の隣につくった医学学校跡にある湯どうふ店 株式会社順正(じゅんせい)の大西隆 専務が面会されました。
今回の歴史的な面会を企画・実行されたのは、地元の由良出身で株式会社カスタネットの植木力社長で、現在、由良にリモートワークオフィスを建設中です。
1962(昭和37)年、由良神社で行われた「新宮凉庭の顕彰碑 除幕式」で両家のご家族が面談されてから60年が経ちましたが、お互いの資料や言い伝えを交換していると、新たな発見がありました。
これからの歴史検証やビジネスなど様々な展開が楽しみです。
新宮凉庭は、医学学校と文化サロンを兼ねた「順正書院」を南禅寺の隣に建て、大名諸侯や文人墨客らが集い、理財家として盛岡藩と越前藩の財政を立て直し、故郷の田辺藩には融資を行い、経済書も著し、日米和親条約が結ばれた1854(嘉永7)年に68歳で亡くなるまで、当時の日本の医療・政治・経済に於いて多大な影響を与えました。
尚、「順正書院」は瓦屋根に桧皮を配した造りで、後に国の有形文化財に登録され、現在、南禅寺ゆどうふ順正として賑わっています。
【新宮凉庭のWikipedia】
https://ja.wikipedia.org/wiki/新宮凉庭
【株式会社 順正のHP】
http://www.to-fu.co.jp/
新宮凉庭は16歳で福知山藩の江戸藩邸に詰め、18歳の時に由良で漢方医として開業し、昼夜を問わず、寝食を顧みずに治療に当たったと言われます。
21歳で西洋医学を学ぶことを決心し、長崎出島の商館医として働き、31歳で由良に戻った翌年、京都で開業し、名医の誉れ高く、多くの弟子も育て、新宮凉庭の門弟は、後に「寮病院」から京都府立医科大学へ発展する「京都医学研究会」を設立し、近代医学に貢献しました。
また、新宮凉庭は経済的にも成功し、52歳で医学学校と文化サロンを兼ねた「順正書院」を南禅寺の隣に建て、大名諸侯や文人墨客らが集い、理財家として盛岡藩と越前藩の財政を立て直し、故郷の田辺藩には融資を行い、経済書も著し、日米和親条約が結ばれた1854(嘉永7)年に68歳で亡くなるまで、当時の日本の医療・政治・経済に於いて多大な影響を与えました。