父 卓三の命日

1998年8月11日に逝去した父・星野卓三、早いもので20年経ちました。
父は万人に対して口数が少なく、大学時代のあだ名は「しずかちゃん」で、私も生前あまり語り合うことがありませんでした。
孔子の言葉の一つに「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とありますが、突然の事故で亡くなっただけにもう少し話をしておけばよかったと悔やまれます。

生前ご親交頂いた方から度々お墓の場所の問い合わせを頂きますので、智源寺の連絡先をこちらに記します。
・住所:京都府宮津市京街道769
・電話:0772-22-2604
・墓地:南墓地C(姉 山本絵理子の墓も近くにあります)
・HP:http://www.chigenji.com/
そして、お世話になった皆さんには改めてこの場をおかりして、お礼を申し上げます。
随分若い父に違和感を覚えますが…
父は、1930(昭和5)年10月15日に京都市役所の西隣の自宅で生まれ、柳池小学校に通いました。
太平洋戦争が勃発した頃、家族で宮津に移り住み、宮津高校(旧制第四中学校)に入学。
東京大学には力及ばず、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学して、卒業後は国語辞典の編纂に携わり、中学教員に転職するまで東京で過ごしました。
逝去後、大学時代の友人の方から伺ったのですが、父のあだ名は「しずかちゃん」。
寡黙で本ばかり読んでいて、一緒に部屋にいた時に気が付かなかったことが度々あったそうです。
就職後、国語辞典の編纂をしていたのが天職で、後に中学校教員に転職したと聞いて、みな驚いたそうです。
私が生まれた直後の写真です。
父達は、大学卒業後10年経ってから定期的に、友人と互いの家族写真を焼き増しして、15冊のアルバムを作成・交換していました。
父は、仲の良かった友人15名で学生時代から「凡人会」と命名して集まっていたそうです。
その名の所以は、早稲田大学の創始者の大隈重信候が「早稲田大学は、一部の秀才のものではなく、百万人の凡人のものである」と仰られたことに所以するそうです。
しかし、父を除く皆さんは、大手出版社、新聞、企業の重鎮の方々ばかりでした。
父達とは1世代上の「あすなろ物語」(井上靖著)が思い出されました。
因みに、そのアルバムの家族紹介の欄には、父の字で「次男 和彦、生まれたばかりで、まだ海のものとも山のものとも分かりません」と記載してありました。

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