宮津空襲の慰霊祭2018


昭和20(1945)年7月30日、一般市民戦死者の15名・負傷者約60名、撃沈された駆逐艦「初霜」の戦死者132名と伝わる「宮津空襲」から73年が経ちました。
「このままじゃいかん。宮津の歴史で最も悲惨な日を後世に伝えんと!」
と仰られる5名の宮津空襲経験者の皆さんと、最も市民の被害が大きかった「桜山」の防空壕跡で一昨年から慰霊祭を始め、今年も行いました。

「宮津空襲」は「宮津湾・伊根湾海戦」と言った方が良いのかもしれません。
隣の舞鶴港が米軍艦載機による機雷封鎖の危機にあり、昭和20(1945)年6月、帝国海軍は駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」「初霜(はつしも)」を宮津港へ、潜水母艦「長鯨」を伊根湾に移動しました。
「宮津空襲」で使用された爆弾は艦船と鉄道(供給手段)を狙うもので、家屋を焼き払う焼夷弾は使用されていません。
「空襲」に遭った皆さんのお話を伺うと、常に太陽を背に宮津湾上空に殺到する米軍艦載機の機銃掃射は市街地から始まり、早朝から夕方まで続く波状攻撃の中で、正午前後の時は京口橋北方辺りから何列も機銃の通り道になったようです。
上宮津で農作業中だったお年寄りや桜山の防空壕に避難した女性・子ども…
食料や生活用品の不足を含め、戦争とは常に弱者が酷い目に遭うことなのかもしれません。

高齢化が進み、次の世代に伝える術を真剣に考え、具現化することが私たち戦争を知らない世代の責務だと思います。



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