宮津湾で撃沈された駆逐艦「初霜」の錨

東京都墨田区にある「山田記念病院」に、昭和20(1945)年7月30日の宮津空襲で撃沈された駆逐艦「初霜」の錨が保存されています。
軍医として「初霜」に乗艦されていた初代院長の故 山田正明氏は、戦後に解撤された船体の内、「錨」が偶然にも横浜の古道具屋にあることを知り、購入して病院前に据えられました。
今も戦争の記憶を伝えると共に、患者に錨を下して暫しの休息を…
との願いを込めて、「山田記念病院」のシンボルとして「錨」を展示しています。
【山田記念病院のHP】
http://www.yamada-kinenhp.jp/
以下に山田記念病院にある「錨」の説明書きを転記します。
この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。
初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。
初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。
縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。
昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐
山田正明
https://ja.wikipedia.org/wiki/初霜_(初春型駆逐艦)
早朝から夕方まで続く空襲・・・
1945(昭和20)年7月30日は、有史以来、宮津にとって最も悲惨な日でした。
http://sky.geocities.jp/toyotama2012/index.htm
私の祖父の家では、海軍の兵隊さんが宿泊していましたが、駆逐艦・初霜に乗船していた少年兵の方が亡くなりました。
また、祖父の家では、宮津駅前とグンゼへの至近弾、停泊していた関釜連絡船を目がけたグラマンの機銃掃射が庭じゅうに何列も連なっていたそうです。
庭の防空壕に潜んでいた祖父・祖母・母・叔父から、何度も「空襲」のお話を伺いましたが、いまそのお話を甥っ子達に伝えています。
72年間平和でいられる有難さにも感謝したいと思います。
そして、日露戦争に勝利し、連合艦隊解散の辞として東郷平八郎が読み上げた訓示(起草は参謀の秋山真之とされる)を常に心したいと思います。
「神明は、ただ平素の鍛錬に力め、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ぐに之を奪う。古人曰く、勝て兜の緒を締めよ、と」

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