宮津に纏わる名所・著名人

【宮津藩江戸下屋敷跡の旧安田庭園】~東京都墨田区~
東京都墨田区の両国駅界隈は、国技館で行われる大相撲とちゃんこ鍋店が有名ですが、江戸時代に本荘家の宮津藩下屋敷がありました。
本荘家は、京都・今宮神社門前の八百屋の娘お玉さんが春日局に見染められ、徳川3代将軍 家光の側室になり、5代将軍 綱吉(生類憐れみの令で有名)を産み、桂昌院として大奥で絶大な権力を振るい、1688(元禄元)年、異母弟の本荘宗資が大名に取り立てられた後、両国に下屋敷を構えました。(息子の資俊より松平姓を許される)
本荘家は足利・笠間・岡崎藩を治めた後、1758(宝暦8)年から1871(明治4)年の廃藩置県に至るまで宮津藩主を務めました。
同庭園は、維新後、旧岡山藩主の池田家が所有した後、1889(明治22)年、安田財閥の祖 安田善次郎が所有し、1922(大正11)年に東京市へ寄贈されました。(2013年12月に訪問)

【伊万里焼の絵付師 澤田痴陶人の作品を展示する伊万里陶苑】~佐賀県伊万里市~
澤田痴陶人(本名:澤田米三、1902年~1977年)は宮津市出身の陶芸絵付師で、その作品は1993年に大英博物館で日本人初の個展として4ヶ月に亘り公開されました。
その後、各テレビ局や新聞に取り上げられ、希少価値が高まり、今では滅多に作品に接することが叶わないそうです。
「伊万里焼」で有名な佐賀県伊万里市の大川内山に「伊万里陶苑」という片岡鶴太郎さんの作品等を展示する工藝館があり、「澤田痴陶人」の作品が見学できます。
大川内山は、元々16世紀後半の文禄・慶長の役で、豊臣秀吉が朝鮮の陶芸家を拉致して、この地に工房を作ったもので、峻嶺な山と川で囲まれた谷間に関所を設け、脱走できないようにしたそうです。
悲しい歴史も秘めた所ですが、伊万里焼は400年経過しても地元の基幹産業を担っています。
(2015年11月に訪問)

【江戸時代の蘭学医 新宮凉庭の医学校跡・南禅寺の湯豆腐 順正】~京都市左京区~
京都で湯豆腐店が軒を連ねる南禅寺に於いて、ゆっくり庭を眺めながら舌鼓が打てる順正の庭園にある「順正書院」は、江戸時代後期の蘭学医で宮津市由良出身の新宮凉庭(しんぐうりょうてい)によって、1839(天保10)年に医学の学問所として建てられました。
瓦屋根に桧皮を配し、国の有形文化財に登録されている「順正書院」では、当時、大名諸侯や文人墨客らが集い、文化サロンとして論を交わしたと伝わります。
順正書院で学んだ門弟は、寮病院から京都府立医科大学へ発展する京都医学研究会を設立し、近代医学に貢献しました。
新宮凉庭は、幼少期に地元の宮津市由良の松源寺(左の写真)で学び、記憶力に優れた秀才でありながら自由奔放な性格から数々の逸話を残し、後に江戸へ出て、長崎で蘭学を学び、多くの医師を育て、翻訳書や医学書を多数著しました。(2016年4月に訪問)

【幕末の長州征伐で亡くなった宮津藩士を祀る残念社】 ~広島県廿日市市~
幕末の第2次長州征伐の折、宮津藩主 松平(本荘)宗秀は、幕府軍の副総督を務めていました。
激戦が続く各藩境の中で、西国街道の難所「四十八坂」も壮絶な戦いが繰り広げられ、慶応2年7月9日(1866年8月18日)、幕府の軍使として長州藩の陣営に単騎で向った宮津藩士 依田伴蔵は、この地で長州軍から戦闘員と見誤って狙撃され絶命しました。
その時「残念!」と叫んで倒れた為、長州軍は遺憾の意を表し、土地の人々も壮烈な死を悼んで祠を祀り、現在まで丁重に扱われています。
依田神社の鳥居の奥にある大きな石は、安政6(1859)年に安政の大獄で萩から江戸へ送られる吉田松陰が休憩した「腰掛の石」だと伝わります。
死を覚悟していた松陰は、この地で「親思う 心に勝る親心 今日の訪れ 何と聞くらむ」と詠み、故郷の大島方面を望み、「この場こそ三県一望の地である」(下の写真)と別れを告げたと言われています。(2016年8月に訪問)

【宮津・伊根空襲に関わった艦船の慰霊碑】~広島県呉市~
広島県呉市の海を見渡せる丘には、太平洋戦争時に於ける艦船の乗組員を慰霊する旧海軍墓地(長迫公園)があります。
昭和20(1945)年7月30日の宮津空襲で撃沈された駆逐艦「初霜」(戦死者132名との由)と生き残った「雪風」、伊根空襲で撃沈された潜水母艦「長鯨」(戦死者105名との由)の慰霊碑もあります。
太平洋戦争末期、米軍による舞鶴港の機雷封鎖に備えて、帝国海軍は宮津湾と伊根湾に艦船を移動させました。
米軍艦載機は、前日までに周辺海域に機雷を投下した上で早朝から波状攻撃を続け、宮津湾で駆逐艦「初霜」を機雷で、関釜連絡船「慶尚丸」を撃沈しました。(駆逐艦「雪風」は生還)
宮津空襲では、桜山の防空壕近辺、宮津駅前・構内、グンゼ宮津工場正門近くに爆弾が落ち、栗田を通過中の汽車、上宮津地区、鶴賀地区等への機銃掃射や、前日まで陸に落ちた機雷等で、一般市民から戦死者15名、負傷者一説に約60名にのぼったと言われています。
宮津空襲と同時に、舟屋(船の収納庫の上に住居を備えた家)の集落で有名な京都府伊根町に避難していた潜水母艦 長鯨もグラマンの波状攻撃に遭い、艦橋への直撃弾で甲板にいた戦闘員は1名を除き、艦長以下全員戦死し、沈没しました。
凄まじい米軍の機銃掃射と爆弾投下で、伊根湾にいる大量の魚がショックで浮いたそうです。(2016年8月訪問)

【細川ガラシャ終焉の地・越中井と教会】~大阪市中央区~
戦国時代の悲劇のヒロイン細川珠(たま)は、明智光秀を父に持ち、本能寺の変で味土野(京丹後市)に幽閉され、細川忠興を夫に持ち、関ケ原の戦いの折には西軍の人質になることを断り、大坂屋敷で命を絶ちました。
数々の苦難に遭遇した珠はキリスト教の洗礼を受けました。(洗礼名「ガラシャ」ラテン語で神の恵み)
ガラシャは、新婚時から味土野の幽閉を含めて約6年間、宮津で過ごしました。
写真の越中井(えっちゅうい)は、大坂城の南側にあった越中守の細川屋敷の井戸があった場所で、この辺りが終焉の地と言われています。
また、越中井から約200m南にある大阪カテドラルの聖堂でキリシタン大名の高山右近と共に祀られています。

今の大阪城は、慶長20(1615)年の大坂冬の陣で落城後に徳川幕府によって再建されたものです。
写真の堀は、大阪城の玉造口(南東部)から外堀の南側を望むもので、この約100m先に越中井があります。(2016年12月に訪問)

【宮津空襲で撃沈された駆逐艦「初霜」の錨】~東京都墨田区~
東京都墨田区にある「山田記念病院」に、昭和20(1945)年7月30日の宮津空襲で撃沈された駆逐艦「初霜」の錨が保存されています。
軍医として「初霜」に乗艦されていた初代院長の故 山田正明氏は、戦後に解撤された船体の内、「錨」が偶然にも横浜の古道具屋にあることを知り、購入して病院前に据えられました。
今も戦争の記憶を伝えると共に、患者に錨を下して暫しの休息を…
との願いを込めて、「山田記念病院」のシンボルとして「錨」を展示されています。(2017年11月訪問)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9C%9C_(%E5%88%9D%E6%98%A5%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)

以下に山田記念病院にある「錨」の説明書きを転記します。
この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。
初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。
初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。
縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐
山田正明

早朝から夕方まで続く空襲・・・
1945(昭和20)年7月30日は、有史以来、宮津にとって最も悲惨な日でした。
http://sky.geocities.jp/toyotama2012/index.htm
私の祖父の家では、海軍の兵隊さんが宿泊していましたが、駆逐艦・初霜に乗船していた少年兵の方が亡くなりました。
また、祖父の家では、宮津駅前とグンゼへの至近弾、停泊していた関釜連絡船を目がけたグラマンの機銃掃射が庭じゅうに何列も連なっていたそうです。
庭の防空壕に潜んでいた祖父・祖母・母・叔父から、何度も「空襲」のお話を伺いましたが、いまそのお話を甥っ子達に伝えています。
72年間平和でいられる有難さにも感謝したいと思います。
そして、日露戦争に勝利し、連合艦隊解散の辞として東郷平八郎が読み上げた訓示(起草は参謀秋山真之とされる)を常に心したいと思います。
「神明は、ただ平素の鍛錬に力め、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ぐに之を奪う。古人曰く、勝て兜の緒を締めよ。」